
精神や肉体だけでなく経済的、
社会的な充実も得られる
Well-beingを、
スポーツを通じて実現させる。

筑波大学 体育スポーツ局 次長
山田 晋三さん
関西学院中学部 1989年3月卒業
関西学院高等部 1992年3月卒業
関西学院大学商学部 1996年3月卒業
大学卒業後、NTT入社。1999年日本代表に選出され第1回ワールドカップ優勝。2001年日本人初の北米プロフットボールリーグXFLに参戦。2010〜2017年 IBM BIG BLUEのヘッドコーチを経て、現在は筑波大学体育スポーツ局次長として大学スポーツの変革をめざす。
- 50代
- 学校教員
- 教育
アメリカで経験したスポーツとの接し方
父親の転勤により山田晋三さんがアメリカのテネシー州に移り住んだのは1983年、小学4年生のとき。日本人はおろかアジア人すら誰もいない環境は苦労が多く、英語での授業になかなかついていけなかった。それでも野球が得意だったことを生かし、地域のチームに所属。そこで知ったのは、日本とはまったく違うスポーツとの接し方だった。
「まずチームが固定じゃないんですよ。戦力を均衡化するため、みんなが一つの場所に集められ、走ったり投げたりして、コーチが子どもたちを選んでいく。とにかく楽しむことを目的に、チームの強さを均等にして試合に臨み、全員が出場するんです」
その活躍ぶりもあり、友人もできた。ただ、3カ月ほどで「野球のシーズンは終わり」だと告げられてしまう。「次はどうするのかと思ったら、みんながアメフトをやりだすんです。現地のテレビ放送はアメフトばかりだったので、ルールもなんとなく覚えていって、参加するようになった」という。

「アメリカの国技であるフットボールにアジア人が挑戦している」こともあり、周囲からリスペクトの目を向けられるようになる。山田さんが渡されたポジションは、タイトエンド。「隣のプレイヤーをブロックしながら走り、パスをつなぐポジションです。役目を果たすと『ありがとう』と感謝され、仲間意識を実感できるアメフトに、みるみる惹かれていった」と振り返る。
「アメフトはそれぞれのポジションで役割が大きく分かれているスポーツです。走るのが速かったり、身体が大きかったり、バランスが良かったりと、自分の特性を生かして活躍できる。誰であれ自分の居場所が見つけられる点も、とても魅力的に映りました」
しかしそれもまた3カ月で終わり、友人の多くはバスケットボールをやり始めた。子どもの頃からシーズン制でスポーツに親しむスタイルは、アメリカではごく一般的。「そもそも自分の得意分野も、挑戦してみないことにはわかりませんし、好きになるスポーツが増えれば応援面でも活気づきますよね」と山田さん。日本の現状に照らし合わせ、「子どもの数が減っていくなかで、特定の種目に凝り固まるのではなく、いろいろ試してみて可能性を広げていくことは、スポーツ全体の発展にも重要」だと、このときの経験から考えるようになったという。

日々、自分と向き合えた礼拝の時間
山田さんは約4年後に帰国し、父親の母校だった関西学院の中学部に、2年生の2学期から編入することとなった。「帰国子女の第1号として、異例のタイミングでの仲間入りでしたが、タッチフットボール部に入ると、みんなに『教えてくれ』と言われ、友だちはすぐにできた」と目を細める。
「おそらく父の配慮だったと思うんですが、大学卒業までの長いスパンで幅広く物事を考えられ、部活に没頭できる環境に身を置かせてくれたのは本当に感謝しています。おかげで非常に充実した学校生活を送れました。毎日の礼拝で聞いた言葉もかけがえのないものでした。日本でも今でこそ“パーパス”という考え方が普及していますが、毎日15分間だけでも『何のためにこれをやっているのか』と自分に向き合える習慣があったことは、その後の人生につながっていると感じています」
やがて関西学院大学に進み、アメリカンフットボール部「FIGHTERS」に入部。2年生のときには甲子園ボウル(全日本大学アメリカンフットボール選手権大会決勝戦)で日本一となった。3年生では立候補してキャプテンとなったが、わずか2週間後の1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。関学付近のエリアは被災地となった。
「練習もできない状況になり、部員たちとボランティアに励みました。当初はクラブ活動どころじゃないと思っていたんですが、ボランティアに行った先で自分たちが『FIGHTERS』のメンバーであることを告げると、『がんばってください』『いつも応援しています』と励まされて…。逆に自分たちが勇気づけられ、地域とのつながりの大切さや、スポーツで人を勇気づけることの尊さも実感しました」
大学4年生になり、ようやく練習を再開。勇気をもらった恩返しをしようと奮闘したが、結果には結びつかなかった。そもそも「FIGHTERS」は、4年生ですらその多くが試合に出られない大所帯。「とにかく被災地のために勝つんだ、勝つことがすべてだ」と思い込み、厳しく引っ張ろうとしたが、ついていけないメンバーとの溝は深まるばかりだったという。山田さんは当時の自身を「最悪なリーダーだった」と酷評する。
「突き抜けたリーダーとして上手くやれる人もいるかもしれませんが、周りがついてこなければ、仮に勝ったとしてもチームとしての達成感はないでしょう。それぞれに役割を与えて感謝を示すこと、できるようになるまで支えること。そんなリーダーシップが自分にはまるでありませんでした」
一方で、卒業間近の1996年1月には、アメリカの名門大学からなるアイビーリーグの選抜選手と日本の大学の選抜選手による試合「アイビーボウル」に、日本代表主将として参加。「スポーツと社会的役割の両方を、高いレベルで実現する人たちを目の当たりにした」と回想する。

人生の指針となっていく「影響力」
アメフトでの実績もあり、就職先は引く手あまただったなか、選んだのはNTTだった。卒業した先輩の力を借りながら「自分は何がしたいのか」と自己分析し、「世の中に良い影響を与えたい」という指針が見えてきたという。「ちょうどインターネットの黎明期で、通信業界が変わる予感にワクワクしたんです。同期が3000人ほどいたんですが、『自分が変えていく』という気概に満ちた環境が好きでした」と思い出す。
大学卒業後は、4年生の苦い経験もあり、アメフトとは距離を置いていた。「“勝って当たり前”のような環境にも疲れてしまっていた」とも顧みる。しかし時間が経ち再び意欲が湧き始めた頃、「FIGHTERS」のOBだった鈴木智之さんから、自身がスペシャルアドバイザーに就いたアサヒ飲料のチームに入るよう要請された。当時はまだXリーグ(日本社会人アメリカンフットボールリーグ)で弱小だった同チームであれば、「強くなる過程に影響できる」と考え、1998年に加入。2000年には、日本一のチームを決定する「ライスボウル」で優勝し、山田さんはXリーグのシーズンMVPにも輝いた。

さらに、1999年には日本代表に選出され、第1回ワールドカップで優勝を果たす。一連の活躍もあり、アサヒ飲料のチームにいたNFL(米国プロアメリカンフットボールリーグ)出身のコーチから、「アメリカで挑戦してみないか」と声をかけられて渡米。4年半勤めたNTTは刺激的でいい環境だったものの、「より影響力のある夢に挑戦しようと考えた」のだ。
こうして2001年には北米プロリーグXFL、2002年にはアリーナフットボール、2003年にはNFLヨーロッパやNFLのトレーニングキャンプ参加。しかしフットボールはアメリカのなかでも花形のスポーツだ。「野球ならピッチャーや4番打者、バスケットではセンターを務めるなど、あらゆるスポーツでスターになれる素質をもった選手が集まる」環境に大きな壁を感じた。およそ3年間、全力を尽くしたものの、現役を退くことを決めた。

スポーツをアカデミックに学ぶ
日本の場合、活躍した選手が引退後すぐ指導者になることは珍しくないが、アメリカでは稀だという。帰国すると、山田さんのもとに指導者の依頼が殺到したものの、自分が引き受けるにはまだ勉強が足りない。そう考えた山田さんは、鈴木智之さんの営む企業で、マーケティングや広報などスポーツビジネスの世界を学びつつ、アリーナフットボール日本選抜チームやU-19日本代表のヘッドコーチを務めた。
そして2010年、IBMがスポンサードするアメリカンフットボールのクラブチームのヘッドコーチに就任。「アメリカの男性が憧れる職業って2つあって、1つが大統領、もう1つがNFLのスーパーボウル(優勝決定戦)出場チームのヘッドコーチなんです。それぐらい究極の仕事だと言われています」と山田さん。裏を返せば、それだけ難易度の高い仕事だといえる。挑戦を決めたのも、「より影響力の強いポジションだったから」だ。

強豪チームのヘッドコーチを務めつつ、2011年には世界選抜チームのコーチ、2012年にはIFAF(国際アメリカンフットボール連盟)主催のアメリカンフットボール世界選手権の日本代表チームのコーチも務めた。そのなかで、「よりアカデミックに学ぶ必要があると考えるようになった」という。
「スポーツやリーダーシップについて理論から学び直すのは大事です。リーダーシップのあり方についても考えることが多く、コーチングのことも学術的に学びたいと感じていました。そこで2015年、筑波大学の大学院へ進むことにしたんです」
スポーツで職を生みだすこと
在学中、全日本大学選抜チームの主将として先輩にあたる安田秀一さんから、筑波大学の学長を紹介してくれないかという依頼を受ける。安田さんは当時、アメリカのスポーツブランド「アンダーアーマー」の日本総代理店だった株式会社ドームの代表取締役CEOを務める人だった。
「アメリカのスポーツマーケットは、ここ30年で飛躍的に成長しました。アンダーアーマーには、大学スポーツとともに発展してきた歴史がある。日本の大学スポーツ、ひいては日本全体のスポーツ環境そのものを変革させる取り組みを、筑波大学と一緒にやれないかという相談でした。それに対し学長は二つ返事で快諾してくれました。僕自身も協力を仰がれ、ぜひご一緒させてくださいと、筑波大学で働くことになりました」
こうして2017年の大学院修了後、同大学に競技スポーツの部局「アスレチックデパートメント」を新設するべく尽力。2022年には准教授にもなる。同局は2023年4月、体育スポーツを一元化した組織「体育スポーツ局」となり、山田さんはスポーツ統括長に着任し、現在は次長となった。
アメリカの大学スポーツは、年間1兆円もの収入を誇る巨大ビジネスだ。一方日本は、まだビジネスとしてすら成り立っていない。この差は、試合の主催者が日米で異なることが大きく関係している。「日本では各種目の競技連盟が中心になって、試合の日程や会場も決めて主催しているのに対し、アメリカでの主催者は大学。周辺地域の人たちを巻き込み、みんなをファンにして試合を見に来てもらうことで収益を得ている」のだという。つまりはプロスポーツのような位置づけで、大学スポーツも興行されている。
さらにアメリカでは、チームワークやリーダーシップなど、グローバルリーダーに必要な資質やスキルを養う場としても、大学スポーツは注目されている。ハーバード大学の学生の80%が何らかのスポーツ活動に参加し、全米上位500社のCEOの95%が大学時代に競技スポーツを経験していたなど、その教育的価値は具体的な数値からもうかがい知ることができる。
「日本でも大学が主催者となって試合を行うことができれば、地元も活性化するし、大学への憧れも生まれるでしょう。現在、筑波大学が主催するホームゲーム 『TSUKUBA LIVE!』では、学生たちも企画や運営、サポート、応援に関わり、スポンサーもつきつつあります。ホームゲームをやると、学生たちも地域の人たちに『見られている』意識を持ち、モラルも高まっていきます。スポーツは無限の可能性を秘めたパワフルなツールなんですよ」

山田さんが今のポジションに就いた決め手も、やはり「影響力」だ。「ほかの大学が真似したくなるような最高のモデルをつくることが、僕の受けた使命です。何十年後かに子どもたちのスポーツ環境が変わる可能性がある」と力を込める。体育スポーツ局では、学生がスポーツを通じて成長するためのプログラムも開発。学生に地元の小中学校のクラブ活動をサポートさせるなど、近年、課題となっている学校教員の働き方改革にも寄与しているという。
「スポーツには、やりがいもお金も生み出せるポテンシャルがある」と山田さん。最終的には、その両立が可能な職種を増やすこと、つまり「スポーツで職をつくる」ことが一番の目標であり、社会貢献だと考えている。そんな理想に近づくために、山田さんは関係者をつないだり、メディアに関わって社会に発信したり、「自分にできることは何でも取り組もう」と活動をしている。
「僕の一番好きな言葉は、『Well-being』なんです。50数年間、多様な経験をさせてもらった結論として、スポーツ通じてWell-beingを実現させることが、自分の使命なのだとわかりました。アメフトに限らず、スポーツが持つ力は無限です。僕が生涯をかけて成し遂げたいのは、スポーツが持つ力を通じて、たくさんの人が幸せを感じられる社会をつくること。精神や肉体だけでなく、経済的、社会的な充実も得られ、その幸せが満たされている人生。少しでも多くの人にそんな人生を過ごしてもらえるよう全力を尽くします」
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