Interview





姿

灘中学校・灘高等学校 教諭

井上 志音さん

関西学院大学文学部 2003年3月卒業
関西学院大学大学院文学研究科 博士課程前期課程 2013年3月修了

2013年より現職。文学修士(学校教育学)。本務のほか、大阪大学・神戸大学で教職課程の講師を兼任している。専門は国際バカロレア(IB)教育の研究。高校国語教科書(東京書籍)の編集委員に加えて、NHK高校講座「現代の国語」「論理国語」の監修・講師も務めている。著書に『親に知ってもらいたい 国語の新常識』(共著、時事通信出版局)、『国際バカロレア教育に学ぶ授業改善』(共編著、北大路書房)など。

  • 40代
  • 学校教員
  • 教育

なぜ学ぶのか。学校とは何なのか。

生まれ育ったのは奈良県奈良市。母親が文学好きで、自宅の本棚には難しそうな小説がたくさん並んでいた。子どもの頃から、それらに興味を抱き、本を開いては平仮名だけを目で追っていたという。

「ちょうど今、授業で扱っている安部公房の作品も並んでいました。たとえば『箱男』や『燃えつきた地図』なんかも、『この作品は何歳になったらわかるんだろう?』と思いながら見ていた記憶があります。それが言葉との出会いだったと言えるかもしれません。ずっと読み続け、徐々に理解できるようになっていきました」

小学生の頃は、塾通いをしながらも楽しい毎日を送っていた。やがて大阪市内にある中高一貫校に進学。全国屈指の進学校だったが、決められた時間割のもと毎週同じような授業が繰り返されることに、次第に耐えられなくなっていく。そして、次第に心に不調をきたすようにもなってきた。

「高校の頃はもっとも精神的につらい時期で、今振り返ると自分の視線が他人に迷惑をかけていると思い込んでしまう、脇見恐怖症だったように思います。自分の視線を閉ざすため、教室では眠くもないのにずっと突っ伏していました。今ならカウンセリングを受けるでしょうが、当時は家族にも先生にも言えなかった。一方で、学校ってなんだろうと考えるようになっていったんです」

学校とはどういう場所なのか。そもそも私たちは何のために学ぶのか。自身が苦しんだことで、学校という枠組みに疑問を抱き、教師として学校を捉え直してみたいと思うようになった。

「自分の好きな文学で授業ができることに惹かれ、国語科の教員が目標になりました。しかし理系のクラスでしたし、家業も歯科系。有名大学・医歯薬系をめざすことが当たり前の環境のなか、家族にも友人にも『国語の先生になりたい』とは言い出せなかったんです」

先入観のない子どもたちに救われた

高校生活の3年間は、不登校気味になりつつも、どうにかごまかしながら過ごした。その後、進路変更など紆余曲折を経て、関西学院大学に進学。「自分が社会でやっていくためには家を出なければいけない」という思いが強くあり、関学が下宿を必要とする距離にあったことも選んだ理由だという。

「目標について親に伝えたのは高校卒業後。自分で道を決めたからには、学費や下宿代も自分でなんとかしないといけない。1年のときは入学オリエンテーションにだけ参加し、あとは朝から晩までひたすらアルバイトをしていました」

心の調子を崩してしまったこともあって、まずは社会的なトレーニングも必要だと、あえて人と接するアルバイトを選択。なかでも「自分を救ってくれた」のが、小学生の塾講師の仕事だった。

「良くも悪くも子どもって、人のバックグラウンドや悩みを無視して接するじゃないですか。当時は身も心もボロボロでしたけど、子どもたちは先入観もなく、私のことを一人の人間としてまっすぐ見てくれる。それがうれしかったんですよね。彼らと交流するなかで、自然と癒えていきました」

2年目からは、いわく「完全に復活」。教職課程もとりつつ4年間で卒業するべく、フルで授業を詰め込んだ。1年出遅れたことで友人ができるかも不安だったが、徐々になじんでいく。音楽が好きだったため、ジャズのサークルにも所属。文学部では美学科(当時)を専攻し、3年生からは音楽学のゼミへと進んだ。

畑道也先生(中央)とゼミの同期たち。井上さん(右端)の隣の上田篤志さんは、現在、関西学院高等部国語科教諭を務めている

「国語科の教員になったら、文学や言語について見識を深めなければならなくなることはわかっていたので、大学時代くらいは興味の赴くままに学びたかったんです。ゼミの指導教官だった畑道也先生は、子どものように人をまっすぐに見て、寛容に受け入れてくださる方でした。『好きなことを追究しなさい』というお言葉通り、ワーグナーの楽曲の政治利用について研究。学術的な指導はいただきつつも、やりたいことを自由にやらせてもらえました」

中高6年間の成長をまるごと見届けられる魅力

やがて2003年3月に卒業するも、時代は就職氷河期の真っ只中で、教職も非常に狭き門だった。自身と同じ私立の中高一貫校で教えたいという思いを叶えられず、神戸大学の大学院に進学することを選択。奨学金をもらい、人文学研究科で美学の研究を続けた。

「中高一貫校にこだわったのは、高校の卒業式で、担任の先生がボロボロ泣いたことがきっかけです。6年間教えるやりがいはすごいんだろうなと思うようになり、それに携わりたいと考えるようになりました。今なら経験上わかるんですけど、中高6年間の成長をまるごと見届けられる魅力は、他の職業にはないものです」

大学院卒業後の採用試験で内定を得たのは、京都市にある中高併設の進学校だった。

「当時、私が勤めた学校では、新人で未婚の男性教員の多くは、学生寮に入ることになっていたんです。忙しく大変ながらも、生徒たちが普段の学校では見せない顔も見せてくれ、今振り返ってみても、教員としての基盤をつくることができた時期でした。また、この学校は進学校でありつつも、全国から生徒が集まってくるスポーツクラスもある。また、勤務2年目には共学校化もしました。こうした学校変革の流れのなかで、さまざまな生徒に接するのは勉強になりましたし、どんな生徒にでも授業ができるという自信も生まれました」

京都市にある中高併設の進学校に勤めていた頃。毎年、高野山の宿坊で行われていた勉強合宿での1コマ

30歳が近づくにつれ、「どんな学校でも通用する教員になりたい」という思いが心をよぎるようになる。授業のスキルは上がったと感じているものの他の学校ではどの程度通用するのか、また、理論的にはどうなのか。アカデミックな勉強をしてみたいという思いも強まっていった。

「どうにか研究の時間をつくりたいと考えていた2009年、千里国際学園と関西学院が法人合併をするというニュースにふれたんです。もともと千里国際学園は、私服で校則もなく、生徒が自分で時間割をつくるような自由闊達な学校だと知っていました。この学校では、これまで培った生徒指導や受験指導の力が全く通用しないだろうから勉強になるだろうし、学ぶ時間も確保しやすい。加えて今の自分をつくってくれた関西学院に恩返しをしたいという思いもあり、採用試験を受けることにしました」

生徒のできないことを、できるようにデザインしていく

こうして2010年、関西学院千里国際中等部・高等部へと転職。IB(国際バカロレア)認定校であるインターナショナルスクールをキャンパス内に併設していた同校は、IBの要素を取り入れた教育を展開しており、生徒が自分で自らの時間割をつくっていくという教育体制は画期的なものだった。2年目からは関西学院大学の大学院にも通いだし、昼間は仕事、夜間は文学研究科で学校教育学を学ぶ日々を送る。

「生徒みんなが生き生きとしていて、笑顔がすごくいいんですよ。IB教育は国際的視野をもつ学習者の育成をめざしているんですが、教科書ベースの日本の教育と違い、まず学習者ありきなんです。教科書はツールでしかなく、生徒のできないことを観察し、課題を見つけ、そこから逆算して授業をつくっていく。そのことに感銘を受け、大学院でもIBを研究し始めたんですが、学んだことが翌日の授業で活かせるわけです。理論と実践の歯車を合わせながら、研究を日々の授業につなげる喜びを日々感じていました」

関西学院大学大学院 文学研究科の修士学位取得時に指導教官と

2年間の修士課程(博士課程前期課程)が終わりに近づくにつれ、まだまだ学びたいと考えるようになった。しかし関学には同研究科に続く課程はなく、職場から通えそうな夜間大学院もない。悩んでいるタイミングに、知人だった灘中学校・灘高等学校の教員から「うちで働かないか」という誘いがあった。

「灘には学びに使える研修日というものがあり、勤務するのは週4日なんです。だから、大学院にも通うことができる。日本で当たり前とされている教育って、海外から見ると偏りがある。IBについて学んでいくとそれがわかってきたので、教育方法学や比較教育の研究をより深めていきたいと神戸大学の大学院に進むとともに、灘に転職しました」

灘は、初任校の進学校の側面と、二校目の自由闊達な側面を併せ持つ学校だった。学習面でも生活面でも、頭ごなしにルールや法則を覚えさせて守らせるというスタンスではなく、ルールそのものを考えてもらうような方針。「とにかく覚えなさい」ではなく、「なぜ覚えないといけないのか」という動機づけも含め、納得してもらう必要があるのだという。

「8人ほどでの教員でチームを組み、中高6年間、持ち上がりで教えていくんです。だから現代文も古文も漢文も、基本的にはたった1人で6年間を見通して教えていかなきゃいけない。私の場合、まず中学3年間で高3までの内容を一通り終え、その後は2周目の復習となるんですが、高校から入ってきた生徒にとっては1周目です。都度、生徒に声をかけてはわからないことを炙り出し、それを軸に授業をつくっています。変わらず大切にしているのは、学習者ファーストの姿勢です」

灘高等学校での授業風景。「教科書ありきのテストベースで授業を進めなければならない学校が多いなか、灘は時間に余裕があるので、さらにその先まで進めるんです」と井上さん。中高6年間を見据えて教育ができる自由度も魅力だという

まだ見ぬ世界中の中高生に対し、できることはないか

2020年度、戦後最大と言われる学習指導要領の改訂が行われることとなり、井上さんは2018年から高校国語教科書の編集委員にかかわることになる。それをきっかけに、NHK高校講座「現代の国語」(Eテレ)、「論理国語」(ラジオ第2)の監修・講師を務めることになった。

「新しい学習指導要領をもとに教科書を作成するにあたり、教科書会社はいろんなところに声をかけていて、灘でIB的なことをやっている変わった先生がいると誰かに聞いたのか、私のところにも依頼がありました。NHK高校講座からオファーがあったのは、私が関わった会社の教科書をベースに番組がつくられていたからです。メディアを通しての授業では、視聴者の生徒が何につまずいているのかも把握しづらいので、とにかく平易にしなければいけません。テレビもラジオも担当していますが、ラジオ番組の場合、声だけで説明するため、さらに難しい。自分にとっても非常に勉強になっています」

NHK渋谷放送センター内、高校講座「論理国語」のスタジオにて。現在もラジオ第2で放送中

近年は、大阪大学や神戸大学などでの教職課程の講師も兼任。『親に知ってもらいたい 国語の新常識』(共著、時事通信出版局)、『国際バカロレア教育に学ぶ授業改善』(共編著、北大路書房)といった書籍も著している。

「国語で学んだことを学校のなかだけで終わらせては意味がない。卒業後の言語生活に生かしてもらうという視点が大切ですが、それは受け持ちの灘生にだけ言えることではありません。勤務校で教えている220人以外に、まだ見ぬ中高生は世界中に数多くいます。彼らに対して何かできることはないか。そういった思いから、NHK講座だけでなく教育者の育成にも力を入れています。さらに国語教育は学校だけで独立しているものではなく、家庭や地域との連携も不可欠。保護者をはじめ多くの方々に理解してもらうためにも、著書を通じた発信をしています。私は灘の教員である前に、一人の国語科教員です。だけど身体は一つしかない。メディアや教育者の育成を通じて、一人でも多くの生徒の成長に寄与できればうれしいです」

2024年3月に出版された井上さんの著書『親に知ってもらいたい国語の新常識』。小中高生の保護者のみならず、教員・学生・ビジネスパーソンにも推奨されている

接した生徒が、私のいない世界で生きて、後の世をつくっていく

学校とは、いったい何だろうか。教職に就くことへとつながった問いに対し、井上さんが掲げた“あるべき姿”は、「一人ひとりが自分の好きなことを、好きなように追求できる場」というものだった。

「そうありさえすれば、学校と言えるんじゃないかと思うんですよね。自分が最大限に努力でき、自分の能力を最大限に発揮できるものを追求してほしい。そして、みんなで世界や社会を築いていく。これは灘校の校是『精力善用・自他共栄』の精神そのものなんですが、灘校に限った話ではなくて、教育の一つの真理だと思います。自分の好きなことを自分らしく追求できるのが、真に豊かな人生だろうから、教員は大人の価値観や固定観念で生徒の好きなものを測って邪魔すべきじゃないんですよ。たとえそれが役立たないものであったり、回り道であったとしても、本人の意思や判断を尊重して気長に待ち、成長につなげられるようサポートしていくのが教育だと思うんです」

「美学を専攻したことが今になって生きてくる部分もある」と井上さん。国語科の教科書には美学系の作品も掲載されており、「自分の専門領域だから扱いやすく、より深く伝えられる」という

現在の活躍ぶりは家族にも届いており、「今では応援してくれている」と微笑む井上さん。「自分が社会人になれたのは関学のおかげ」だとしみじみ振り返る。

「関学の本当の良さって、就職率だの就職先だの形として見える部分じゃなく、学生のなかに根付く自由さだと思うんですよね。一般的な社会の価値観になぞらえ『こうしなさい』という大学ではなく、特異な部分も個性として見てくれる良さがありました。灘の生徒たちは一見、みんなが好きなことをやっているように見えるのですが、実は『この学校に来たからには東大京大が当たり前』という看板を背負って葛藤している部分があります。そんななかでも、本人が望むなら本校OBの中島らもさんのように『俺、芸大に行くわ』とも言える環境にしていきたい。そのためにはやはり一人ひとりをしっかり見つめ、コミュニケーションをとり続けていきたいですね」

今なお教育に関する研究を続ける井上さんだが、「自分が活動できる間は、得てきたものをすべて教育の実践に生かしたい」と力説する。「教育にあたった学習者たちが社会へと羽ばたき、新たな世界を創造していく姿を見られるのが教職の醍醐味」だと噛みしめる。

「研究者の場合、自分の書いた論文が死後、誰かの目に留まり、後世にバトンがつながっていく魅力があります。だけど教職って、その連関を目の前で見られるんですよ。成長していくプロセスに立ち会えるのはもちろんのこと、自分の接した生徒たちが、自分のいない世界へと羽ばたき、生きていくわけですよね。そして後の世をつくっていってくれる。それをリアルに体感しながら生活できるのは、教育者ならではの醍醐味だと感じています」