Interview



1.17

NPO法人阪神淡路大震災『1.17希望の灯り』 代表理事

藤本 真一さん

関西学院中学部 2000年3月卒業
関西学院高等部 2003年3月卒業
関西学院大学総合政策学部2007年3月卒業
関西学院大学総合政策研究科2009年3月修了

2013年から現職。1984年生まれ。関西学院中学部、高等部、関西学院大学総合政策学部を経て、同大学院総合政策研究科修了。2012年からNPO法人阪神淡路大震災『1.17希望の灯り』理事。

  • 40代
  • NPO職員
  • まちづくり

東日本大震災をきっかけにボランティア活動へ

藤本真一さんが、現在代表理事を務めるNPO法人阪神淡路大震災『1.17希望の灯り』(HANDS)を知ったのは、大学院を修了して丸2年が過ぎようとしていた2011年3月のことである。3月11日、SNSで東日本大震災被災地の衝撃的な映像に触れた藤本さんの脳裏には、16年前、10歳だった時に起こった阪神・淡路大震災のことがフラッシュバックした。

「神戸市の出身ですが、幸い私の家の周辺はそれほど大きな被害を受けませんでした。しかし、父が『今の神戸を見ておけ』と現地に連れていってくれ、そのときの記憶がよみがえったのです。東日本大震災の深刻な被害の状況を見ると、じっとしていられない気がしました」
藤本さんは、関西学院大学大学院総合政策研究科でメディア情報学を専門に研究し映像制作をしていたこともあり、「とにかく現場に行きたい。自分の目で状況を見て、できることをやらなければ」と思ったという。

現在もそうだが、当時すでにプレイングマネジャーとして家業を支えていた。忙しくはあったがスケジュールはある程度自由がきくため、被災地支援のための時間を捻出できると考えた。
まずはインターネットで糸口を探ろうとしていたとき、支援物資を運ぶトラック運転手の募集に目が留まった。どんな団体か詳細を確認することなく連絡したところ、「あなたにできることを相談しましょう」と言われて赴いた先に、当時のHANDS代表で俳優の堀内正美さんがいた。

HANDSは2002年7月に設立されたNPO法人で、震災だけでなくその他の事件・事故で家族を亡くした人たちの支援、震災の記憶と教訓の継承や防災の活動、災害被災地の支援などを行っている。メインの活動には、阪神・淡路大震災で亡くなった人の追悼と被災者と全国の支援者との結びつきを象徴するモニュメント『1.17希望の灯り』の管理、毎年開催されている追悼行事「阪神淡路大震災1・17のつどい」の運営、震災語り部の派遣などがある。

追悼行事「阪神淡路大震災1・17のつどい」では、竹灯籠でかたどった文字がゆらめく。「1.17」に加え9年前からは毎年文字を公募。2024年は、能登半島地震の被災者とともに助け合う気持ちを込めた「ともに」が描かれた

堀内さんは阪神・淡路大震災当時、ボランティア団体「がんばろう!!神戸」を結成して支援活動を展開した人。東日本大震災当時は、関西の被災者から義援金ではなく救援物資とメッセージを贈る「たすきプロジェクト」を主導しており、藤本さんが見たのはその募集広告だった。

「何も知らないまま応募したのが、実は非常に著名なNPOだったわけです。堀内さんが俳優であることも知らなくて(笑)。彼は阪神・淡路大震災のときから支援する側の活動を映像で記録したいと思っていたのに、余裕がなくてできなかったそうです。そこへ映像制作の経験がある僕がやってきて、ちょうどはまったというか。それから1年ほどは、たすきプロジェクトによる支援活動の様子や、被災地にでかけて堀内さんが行った被災者へのインタビューなどを撮り続けました」

2011年6月、3.11の被災地にでかけ、堀内さんによる被災者へのインタビューの様子を記録。長く映像の世界で活躍する堀内さんから、多くの貴重なアドバイスをもらった

驚かされるのは、藤本さんのフットワークの軽さである。本業とボランティアを両立しなければならないこと、歴史と実績のあるNPOという新たな場でメンバーに溶け込んで活動すること。どちらもなかなかハードルは高そうだが、それをものともしない行動力の源泉はどこにあるのか。
「新しいことでもためらわずにやるのは僕だけでなく、関学生にはそういう人が多いですよ。『やりたいと思ったことはできる』学校で過ごした経験が大きいと思います」

恩師2人に導かれて映像の魅力にはまる

藤本さんは中学部から関西学院の門をくぐった。特に思い入れがあったわけではなく、学校見学で見たキャンバスの美しさと、校内に自動販売機があることに感激したことがきっかけだったという。しかし、入学後の関学には強烈な印象を抱いた。

「僕が思う関学らしさはいくつかあるんですけど、その一つは先生と生徒の関係です。『えびちゃん』『いかちゃん』『ぶんちゃん』など先生のことをあだ名で呼んでもいいんだけど、調子に乗って一線を越えるときっちり叱られます(笑)。また、体育祭のリレーに参加する先生たちが、生徒相手にとにかく本気で競争する(笑)。そんな中で自然と大人との関係の結び方を学んだというか、一方的な結びつきでなくお互いに相手のことを考え合うようなコミュニケーションの仕方を身につけることができたと感じます」

そういう先生や友人との密な信頼関係をベースに、「やりたいことができる場があった」と藤本さんは語る。
「中学部3年から高等部にかけてお世話になった数学の宮寺良平先生が、自前のMacや映像関連のソフトを自由に触らせてくれたんです。先生の『これからはパソコンで映像編集や制作をするのが当たり前になる』という言葉にもワクワクし、動画制作に夢中になりました。文化祭では、学校の先生をモデルにパロディ映像を自作して出品しました」

高校時代は映像制作の活動とともに陸上部にも所属。高校3年からは家業の店長を任されるなど、藤本さんのマルチタスクな生活はこの頃から始まっていた

在学中に毎年発表し続けた作品は多くの生徒に喜ばれ、藤本さんは「映像で発信する」魅力を知った。そんな藤本さんを見てきた宮寺先生は、総合政策学部にメディア情報学科ができると聞いて「きみに向いているのではないか」と進学を薦めてくれたという。

大学では、メディア情報学科教授で映像プロデューサー・写真家としても活躍する畑祥雄先生と出会い、ますます動画制作やメディア発信の魅力を探求するようになる。2年次には課題として「社会に発信できる10分のドキュメンタリー映像の制作」に取り組み、企画から取材・撮影、編集まで一貫して行った。3、4年次のゼミでは、学生が制作した動画を配信するサイトをNTT西日本と共同で立ち上げる経験もした。

「社会に発信できるドキュメンタリーの制作」では、パラリンピック選手をテーマに据えた。制作チームをひっぱり、東京まで取材にでかけるなど全精力を傾けた

ブロードバンドが登場し、YouTubeのような動画投稿サイトが興隆し始める時期である。藤本さんは、自主制作動画の、マスコミには当てられないところに光を当てる新しいパブリックなメディアとしての可能性に興味を持った。大学院に進んで学びを続け、映像コンテンツを使った社会発信を手がけるベンチャーの起業が一つの夢になったという。

「映像作品をアートとして追求するよりは、映像を使って社会的な役割をどう果たせるかに興味があった」と話す藤本さん。大学院修了後は家業に専念することになったものの、「いつか何かあったときに映像を役立てられるよう、機材やスキルを準備しておこう」と考えていたという。藤本さんの中では、HANDSに出会う前からそこで活躍するための素地がすでにできていたと言えるのかもしれない。

1.17の発信を通じてその意味を考え続ける

藤本さんがHANDSに関わって2年ほど経ったころ、堀内さんの指名で代表を引き継ぐことになった。29歳の時である。「最初は怖かったです。自分が重い経験をしていないのに、震災で大切な人を亡くした人の代弁ができるのかと悩みました。ただ、1.17の発信というミッションにはやりがいを感じたんです」と藤本さんは話す。

HANDSの活動目的は、震災を忘れずに伝えていくこと。だが、年を追うごとに震災を経験した人が減る中で、記憶を継承するには伝える技術が必要になる。引き継いで10年、藤本さんは変化に対応して活動のあり方を広げてきた。

たとえば、追悼行事はもともと震災の遺族のための行事だったが、今は震災を実体験していない若者も含めた多くの人々を集める行事へと変化させている。『1.17希望の灯り』の種火を使った花火大会の開催もその一つだ。

2019年からは東京でも追悼の集いを開催している。「忘れないでいてもらうためには、発信力を高め、東京など関西以外の地域の人に広く知ってもらうことが大切」という思いから始めたという。また、フェイスブックジャパンと共同で、震災当時の写真や動画をデジタル化するデジタルアーカイブ事業を推進。さらにSNSやマスメディアと連携してシンポジウムを開催するなど、災害時の情報伝達を中心にこれからの防災に向けた検討も行っている。
2023年には、阪神・淡路大震災の被災地で災害復興や被災地支援を行い今も活動を続けているボランティア団体が一堂に会し、教訓を次世代に伝える「1・17伝承合宿」を企画した。
「それぞれの団体が30年近い活動の中で得た英知を、今のうちに集めておきたいと思いました。個性的なレジェンドたちが思いのたけを語り合う内容の濃い会で、参加した高校生は『人生で一番深い2日間でした』と話していました」

阪神・淡路大震災を契機として発足し現在まで個性的な活動を続けている。ボランティア団体の主催者が一堂に会した「1・17伝承合宿」。マスコミや研究者からも大きな注目を集めた

これらの試みには、「つながり」のための発信を大事にする藤本さんの思いが表れている。当初、堀内さんのもとで映像による活動の記録を担当していた時から、「神戸で支援の品を仕分けしている様子を、混乱が収まり復興期にさしかかった東日本大震災の被災地の人が見ることで、人と人とのつながりが広がっていくはず」だと思っていた。震災の記憶のバトンを若い人たちへ渡し、被災地と被災地、被災地と他の町をつなぎ、レジェンドたちの知恵を結び合わせる。それらの取り組みは、1.17の継承が現代社会に果たす役割をより大きくしていくに違いない。

代表としてずっと考え続けてきたことは、団体をつぶさないこと。新たな試みを続けるのも、今までと同じことをやっていては後がないと思うからだという。企業経営者の視点が垣間見える。
「NPOは利益が目的ではありませんが、企業経営の経験が生きていると感じます。継続して活動するためにお金や人がきちんと回るようにしたり、目的に応じて企画を立てたり広報戦略を考えたりするのも、経営の考え方を知らず知らず応用しているんです」

HANDSの活動を継続させるために自らが果たすべきミッションと今後の活動について語る藤本さん

追悼行事「阪神淡路大震災1・17のつどい」も『1.17希望の灯り』も、震災の記憶の象徴的な存在だ。つどいには毎年5万人の人々が集まるが、「30年も経って、この規模の行事ができることは誇り」だと藤本さんは感じている。そこに神戸というコミュニティの持つ力が表れているからだ。「そのための場をつくり、橋渡しをする」のを自分の役割だと任じ、次の世代へどのように継承するかに心を砕く。震災を知らない若いグループも生まれており、できることがあれば支援したいとも考えているという。藤本さんがめざすのは、人と人とをつなぐまさにメディア(媒介)なのだろう。神戸にとって1.17のもつ意味を問いかける、藤本さんの発信はこれからも続いていく。

Release Date : 2024/04/01
※掲載内容は取材当時のものとなります