人が持つ本質的な力を
信じてこそ、
人はゆっくりでも歩みを進められる。
芸術家/ユージーン・スタジオ
寒川 裕人さん
関西学院中学部 2005年3月卒業
関西学院高等部 2008年3月卒業
絵画、彫刻を中心に、過去に東京都現代美術館での最年少での大規模個展や、金沢21世紀美術館など国内外での展覧会等ほか、短編映画が10以上の国際映画祭にノミネート等。また過去の個展がもととなり、さまざまな地域の支えにより、バリの世界遺産麓にて常設美術館が建設されている。(2026年一般公開予定)。そのほか初期の活動は、新書『アート×テクノロジーの時代』(宮津大輔著、光文社新書)にて、チームラボとともに日本を代表する4つのアーティストとして紹介されている。
- 30代
- 作家
- 芸術
「すべてのものを分け隔てなく受け入れる」姿勢
家族の仕事や旅行により、海外に赴く幼少期を過ごした寒川さん。強く記憶に残っているのは、ヨーロッパ。何カ国も訪れるなかで、「すべてのものを分け隔てなく受け入れる」という姿勢が自身の基盤となっていく。
「バックグラウンドも文化圏も言葉も、違うのが当たり前。たとえばスイスへ向かう列車のなかで偶然仲良くなった家族と、共通するものはなんだろうといったことを、自然と考えたことを覚えています」
父が関西学院の出身であり、実家から近かったこともあり、中学部から関西学院へ。持ち前の探究心から勉強も好きだったため、入試をトップクラスでクリアすると、そのまま好成績をキープした。なかでも自分の解釈で組み立てる論述問題が好きで、解答用紙のスペースが足りず裏面にまで書き連ねた思い出が残っている。
「とくに印象深かったのは、必須の課題だった論文です。中学部3年生の卒業レポートでは火山について書きました。本の中身や主題を分析する方法も教えてもらいつつ作成できましたし、あのときの『興味を深めていく』という行為が今でも自分の基盤になっています」
美術というもの自体が、さらに広がっていく
芸術に興味を持ったのは、進路について考え始めた15歳の頃だった。「世界の構造がどうつくられているのか」に関心があったため、もともとは社会学や政治学を専攻しようと考えていたが、友人が「好きそうだから」と貸してくれた、人工知能に関する書籍を読んだことで見方が変わる。
「まだシンギュラリティという言葉もほとんど知られていなかった頃でしたが、それが来るらしいと知り、それでも人間が楽しめるものが今後は必要になるだろうと思ったんです。少なくとも自分が生きているうちに追いつかれないようなものが、人々が追い求めるものでもあるはず。それこそが美術だと考えました」
そもそも絵を描くことが好きで、その頃からデッサンを習いに行くようにもなった。いざやり始めると、何かに取り憑かれたかのようにのめり込む。朝5時に起きて絵を描いてから登校するような日々が続いた。
「やはり根本的な部分で楽しかったのだと思いますね。現実にあるものを自分で認識し、それを違う次元である絵として表していくのは、非常に奥が深い。また、描くことに関しては、才能というよりかは、偏愛があったと思います。今、思い返すと、自分にとって理屈ではなく、飽きないような行為だったのでしょう。自分の基盤はそういった絵画にあると考えています」
高等部に進んでからは東京へも足を運び、さまざまなアーティストとも出会っていく。これからの時代は、アーティストやクリエイターが社会に影響を与えていくのではないか。「美術やクリエイションという領域自体が、さらに広がっていくだろうと感じていた」と寒川さんは振り返る。
人は必ず変わるものだと、身をもって気づけた
研究論文にも力を入れた。中学部の2年生では大好きだった「サッカーの戦術」について執筆し、高等部の3年生では将来を見据えて「今日におけるデザインの社会的役割」をテーマに取り組んだ。
「当時、論文執筆に必要な文献を学校の図書館が買ってくれる制度がありました。図書室には、現代美術やデザインの最先端の本がなかったので、リストアップして15冊ほどお願いしました。美術の道に進むことを決めていたので、せっかくなら課題と合わせてみようと。おかげで基礎的な美術史やデザイン史に関しては、高校時代に数十ページの文章にしていくことで、一端を知ることができたと思います」
高等部卒業後は、京都の芸術大学に進学し、現代美術と情報デザインを専攻した。ほとんどの学友が関西学院大学に進学するなかでも、「迷いはなかった」という。
「今でも周囲にはごくわずかですが、当時は身近に芸術で生計を立てている人もいませんでしたし、周囲から『才能のあるなかで0.1%に満たない人しか継続できない世界』と反対されることもありました」
そして大学1年生だった19歳のとき、大きな転機が訪れた。母を亡くしたことで、それまでの感覚が一変。自身の作風もガラリと変わり、今のような作品に近づいていく。
「母が亡くなる前後で、良いと思っていたものが180度変わりました。以前はわからなかったものが理解できた。自らをもって、人はこんなにも変わるのだと驚きました。人は必ず変わるもの。芸術の本質の一つを、ここで理解したように思います」
今この時間を生きている全員が同じラインにいる
自分ですら変わるのであれば、他人も人生のなかで変わる。他人の意見が絶対ではないのは当たり前のこと。他者を意識するのではなく、結局は自分で開拓するしかないと認識するようになったことも、大きな変化だった。
「もしこれから、こういった領域に興味がある方がいるなら、歴史を深く学び尊重しつつ、そのうえでなお、『自分自身が誰よりも先端にいる可能性もあるかもしれない』、それぐらいに思っていただきたいです。これは驕りではなく、年齢や場所に関係なく、実際に今この時間を生きている全員は同じ線上にいる。そしてすべては変わる。良いとされるものもまた変わります。そうであれば、先人の探求を知りながらも、今、自分自身が何を感じ、何を行うのか自らで決める、という姿勢を貫くべきです」
寒川さんが注目されるきっかけになったのは、大学の卒業制作として発表したインスタレーションだった。SNSなどで積極的に情報発信もしていないなか、展示が設置中で未完成の時点から、ギャラリーから所属契約などへの引き合いが相次いだ。
「卒業制作は、スポーツの歴史を再構築するリサーチとインスタレーションをリンクさせた作品でした。共通のルールのなかでのコミュニティ、信頼性、偶然性など、スポーツのさまざまな要素を拾い上げ、解釈していきました。中学校のころに、サッカーの戦術をテーマに論文を執筆したときと、興味は大きくは変わっていません」
数年後には、石川県の金沢21世紀美術館で、この卒業制作に触発され、同作品のタイトルを冠した企画展(グループ展)が美術館主催で開かれ、卒業制作の一部が出展されるなど、後への広がりが大きかった作品だった。
「共生」がテーマの作品を、バリの常設美術館に
「共生」と「想像の力」を主題とした東京都現代美術館での個展が世界的な反響を呼ぶなど、大規模なインスタレーションや絵画を中心とした寒川さんの作品の数々は、国内外から高い評価を受け続けている。その理由について、「隔てなく開かれている作品であることが大きいのかもしれません」と述べる。
「母の死を体感してからずっと、大きなテーマが『共生』になっています。全然違うものが一緒に存在しているような状態をめざし、作品の中に敢えて違う要素を入れるなどしています。幼少期の海外での経験や母の死などが相まって、人だけでなく物に対しても、分け隔てなく接するというのが自分の基盤です。そのような捉え方が、作品に出ているのだと思います」
寒川さんの作品、そして込められたメッセージが、多くの共感を呼んでいる。東京都現代美術館での個展を見に訪れたアジアやインドネシアにゆかりのある人々が主体となって進められ、同展を原型にした常設美術館「ユージーン・ミュージアム・イン・バリ」も、これら状況が生み出した結果の一つ。バリの世界遺産の麓、タナロット寺院の近くで建設中のこの美術館では、寒川さんの作品といつでも出会えるようになるのだという。
「すばらしい人々、そして多様な文化圏の人たちからのありがたいご提案とご支援があってのもので、このようなプロジェクトはこうした多くの方々のご支持がはじまりでした。あまねく人々、時代に開かれたものになってほしいと願っています」
報酬のための人生ではなく、奉仕のための人生
評価されることを目的としてしまうと、それが返ってこなければ意味がなくなってしまう。芸術活動に対し、「最終的には人間としての力が問われることになってくる」と、寒川さんは結論づける。
「僕は、大切なのは、報酬のための人生ではなく、奉仕のための人生なのではないかと思っています。たとえばお金をもらうことや、誰かに認められるというものは結果論の一つで、それが目的になってしまうと、いずれ行き詰まり、循環できなくなると思うんですね。そうして作られたものは、今後を生きる人々から本当に求められるものにはならないと感じています。自らでゆっくり見つけたものを、鍛錬し続ける。そして急がずに待つ。まさに“Mastery for Service”そのものかもしれません」
「でも、チャレンジしたいことはたくさんありますね。年間数十は浮かぶアイデアに対して、1~2個実現できたらすごくいいペースです」。寒川さんはそう言うと笑顔を見せる。
「想像を超えて現実は続きます。小さく一人だと思っていた道が、大きく広がるときもある。航路をとくに決めない方が、おもしろい状況になることもあります」。自身に限らず「人間の可能性を信じているから」こそ、「すべての人々が、良き開拓者になりえると思っている」と寒川さんは言う。
「たとえば作品というものは、僕が対話するよりはるかに長い時間、多くの人と向き合えるものです。人々が見て、感じて、考えてくれる。その人々は、もしかすると明日の誰かかもしれないし、100年後の見知らぬ人々かもしれない。その人々がどこかで変わり、何かを行う力、世界を何かしら良くする力を、信じているのだと思います。人が持つ本質的な力を信じるからこそ、人はゆっくりでも歩みを進められるのだと思います」
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