関西学院を形づくった人物たち
創立者ウォルター・ラッセル・ランバスをはじめ、関西学院は多くの先人たちの熱い志のもとに形づくられました。現在の関西学院の在り方に多大な影響を与えた先人たちを紹介します。
W.R.T.ランバス (1854-1921)
関西学院の創立者であるアメリカ人宣教師(南メソヂスト監督教会)ウォルター・ラッセル・ランバスは、1854年に両親の赴任先であった上海で生まれました。祖国アメリカで医学と神学を修め、中国に戻って医療活動に携わりながら宣教師として活躍し、1886年に32歳で日本に赴きます。
1889年、牧師養成と青年への全人教育を目的とした男子校の創立を計画し、原田の森(現在の神戸市灘区)に木造校舎を建造して関西学院(クワンセイガクイン)と名付けました。始まりは教師5人と生徒19人の小さな学校でした。
ランバスはわずか4年余りの日本滞在期間に数々の教会や学校の創立に関わり、大きな足跡を残しました。離日後も、その圧倒的な行動力によって南米、キューバ、アフリカ、ヨーロッパ、シベリア、中国、朝鮮半島など世界を駆け巡り、伝道活動を続け、特にアフリカへの医療伝道を人生の目標(ライフミッション)として情熱を傾けました。
ランバス家の故郷ミシシッピー州には、一家の働きを記念する碑が建っています。そこには、ランバスの働きに対して“World Citizen and Christian Apostle to many lands”(世界市民であり、世界各地へのキリストの使徒)という句が刻まれています。
C.J.L.ベーツ(1877-1963)
カナダ・メソヂスト教会宣教師。第4代院長。1877年、カナダ・オンタリオ州生まれ。クイーンズ大学を1901年に卒業。1918年、モントリオールのウエスレアン神学校から神学博士号を受けました。1902年に東洋伝道への献身を決意して来日。カナダ・メソヂスト教会が関西学院の共同経営に参与した1910年、関西学院に赴任し、2年後に新設の高等学部長となり、1920年に関西学院第4代院長に就任しました。
高等学部長の時に提唱した”Mastery for Service”が、院長就任とともに、学院全体のスクールモットーとなりました。院長として20年間にわたり関西学院発展のために尽力し、学院の悲願であった大学昇格に際しては、渡米して連合教育委員会およびアメリカ・カナダ両国伝道局の承諾を得、1932年に大学開設を果たすなど学院の礎を築きました。
ジョン・ウェスレー(1703-1791)
メソヂスト運動の創始者。英国国教会司祭の家庭に生まれ、幼い頃に火炎の中から救出されたことから強い召命感を抱くに至る。国教会の司祭となり、弟のチャールズらと「神聖クラブ」(後の「メソヂスト」)の活動を指導。その後モラヴィア兄弟団の人々の敬虔な信仰に触れて「回心」し、87歳で亡くなるまで伝道に尽力。彼の死後、この運動はメソヂスト教会として国教会から独立し、特にアメリカで広まった。
J. W.ランバス(1830-1892)/ M. I.ランバス(1833-1904)
学院創立者ウォルターの両親、ジェイムズ・ウィリアムとメアリー・イザベラは、結婚翌年宣教師として上海に赴任。32年間の中国宣教の後、1886年神戸に転任し、西日本での宣教活動を展開。メアリーは、聖和の源流となる神戸婦人伝道学校(ランバス記念伝道女学校)を開設。ジェイムズ・ウィリアムは神戸で亡くなり、メアリーは米国に帰国後、再来日して伝道女学校校長を務めた。
吉岡美国(よしおかよしくに)(1862-1948)
第2代院長。京都市に生まれる。兵庫ニュース社に勤務していた時期に日本伝道を開始した直後のランバス父子と出会い、彼らとの交流を通して信仰を得、学院の創立に協力。1890年アメリカのヴァンダビルト大学神学部に留学、帰国した92年に院長に就任、以来1916年まで院長を務めた。「敬神愛人」を唱え、関西学院発展の基礎を固めた。
J.C.C. ニュートン(1848-1931)
第3代院長、初代図書館長。1848年米国サウスカロライナ州に生まれ、南メソヂスト監督教会牧師となり、88年に来日し、翌89年の関西学院創立とともに初代神学部長に就任。「関西学院育ての親」と慕われ、創設期の学院と苦楽をともにした。敬虔な生活と精魂を傾けた教育によって人々に偉大な感化を与え、終生、愛と奉仕の生活を続けた。
W.M.ヴォーリズ(1880-1964)
ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、米国生まれの建築家で、原田の森の煉瓦造校舎群や、上ケ原に移転した際にスパニッシュミッションスタイルに統一した新キャンパスを設計した。数多くの西洋建築を手がけ、本学の時計台を含む多くの建築物が国の登録有形文化財に指定されている。若きベーツも出席していたカナダ・トロントにおける学生世界宣教義勇大会にヴォーリズも出席し、アジアでの宣教活動を決意したと言われている。近江兄弟社を設立してメンソレータムの販売などによる実業的活動を通じ、熱心な伝道活動を展開した。
矢内正一(やないまさいち)(1900-1984)
新制中学部初代部長を18年間、関西学院理事長を5年間務める。イギリスのパブリックスクールに教育の理想を求め、神を畏れ、学力のみならずキャンプ、駆け足等によって、身体・精神を鍛える教育を実践した。「美しく、正しく、強い心の持ち主となれ」というモットーは「矢内イズム」として継承され、少年たちに夢と希望を与え、現在の中学部教育の支柱となっている。