Interview





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株式会社イツノマ 代表取締役

中川 敬文さん

関西学院大学社会学部 1989年3月卒業

株式会社ポーラを経て、新潟県上越市に移住し当時国内最大級のショッピングセンターの立ち上げに関わる。2003年よりUDS株式会社の代表取締役。「キッザニア東京」の立ち上げ、地方自治体のまちづくり、中高生のキャリア教育を手がける。2020年、宮崎県都農町に移住し株式会社イツノマを創業。グランドデザイン策定、こども参画まちづくり(第15回日本まちづくり大賞)のほか、2021年に空き家をリノベーションした「まちづくりホステルALA」を開業。まちづくりに関心のある人向けのスタディツアーを実施し、町内外の交流を促進している。

  • 50代
  • 会社経営
  • まちづくり

やりたいことをやって暮らす、自由な環境への憧れ

高校時代は「サッカーしかしていなかった」と笑う中川さん。唯一、惹かれた仕事が「ハワイに住み観光客を案内するツアーコンダクター」だったことから、観光について学べる社会学部に注目。卒業したら、生まれ育った東京を出て、一人暮らしがしたい。せっかくなら、おもしろそうな関西に行ってみたい。そんな観点から大学を探し始め、オープンキャンパスで一目惚れした関西学院大学へと進学する。

「おしゃれでかっこいい環境への憧れと、ユニークであることへの優越感を勝手に覚えて、必死に受験勉強したのを覚えています。ほかの大学も受かったのですが、もう『ここしかないな』と」

1年生の夏休み、友人たちとハワイ島を訪れ、初めて体験したのがスキューバダイビングだった。美しい海や魚とふれあう感動から、帰国後すぐにライセンスを取得。学内にあったダイビングのサークルに所属し、海に潜ることが学生時代のほぼすべてになっていったという。

「沖縄の小浜島では毎年春夏に 1カ月以上、合宿をしていたんですが、その際に出会い衝撃を受けたのが伊藤隆さんです。マンタの棲む小浜の海に惚れ込み、岐阜から移住してダイビングサービスを創業された人なんですけど、来る人のガイドをして必ず満足させるし、毎日潜り続けて識別した60 匹以上ものマンタの生態を研究し、出版までされている。今でこそ地方移住される方も増えていますが、バブル景気の真っ最中、あれほど浮世離れしたかっこいい大人は見たことがなく、ものすごく憧れました」

大学時代、スキューバダイビングを楽しみに行ったバリ島にて。一番左が中川さん

一方、大学の勉強で印象深かったのは、女性学の旗手、加藤春恵子教授によるゼミ。「両性関係の現状と未来」というテーマは、当時では珍しい切り口で、「時代の先を見通した先進的な学びができた」と振り返る。

「まだ仕事もしていない学生なので、両性関係といっても恋バナぐらいしかなかったんですけど、『デートのときにどっちがお金を出すべきか』みたいなディスカッションはおもしろくて好きでした。小難しい話ではなく、身近に起こる現象から学んでいくのが好きなのは、今も変わりません。性別の境界を超えたフラットな付き合いが好きになれたのもゼミのおかげ。大学時代に培った感受性が今のベースになっています」

関西学院大学の卒業式での1コマ。左が中川さん。「楽しすぎる学生生活でした」と懐かしむ

仕事を楽しまないと、いい企画はできない

社会に出たのは平成元年(1989年)。かつてない好景気で、引く手あまたの売り手市場だった。就職活動の期間はわずか1カ月。好きだったダイビング雑誌の出版社とフィットネスクラブからも内定をもらったものの、最初は経験の幅が広がりそうな大企業のほうがいいと考え、化粧品メーカーのポーラに決めた。

 「ゼミの影響もあったと思います。もっと男性用化粧品があればという思いと、女性が多いほうが職場環境も柔軟だろうという考えから化粧品業界で探したところ、ポーラの採用担当が新卒のイケメンだったんですよね(笑)。ここなら若い人を大切にし、活躍させてくれるはずだと就職を決めました」

入社すると、希望した新規事業開発部に所属。勤めたのは1年9カ月という短い期間だったが、「最高にエキサイティングで、自分にとってはすべてのベースになっている」と振り返る。

「社内ベンチャーの部署だったので、商品企画から、宣伝、収支計画、在庫管理、お金の回収まで、全部やらせてもらえたんです。そのときのリーダーは本当に上司の鑑で、今でも一番尊敬している人。化粧品会社の新規事業としてキャンディ販売を担当し、お店に陳列してもらうのも販売するのも大変だったのですが、『仕事を楽しまないと、いい企画はできない』という姿勢を叩き込んでくれました。その当時、転職や独立なんて発想すらなかったものの、一番仲が良くて仕事もできた同期2人が早々に動きだしたことで、自分も外を見た方がいいなと転職を考えるようになりました」

「新規事業開発部のリーダーに出会っていなかったら、自分は今こんな仕上がりになっていないので、本当に感謝しています」と微笑む中川さん

人を焚きつけ、動かす力があればなんでもできる

その後、コンサルティング会社に転職。「モノではなく自分を売る仕事がしたい」という欲求に駆られたという。そこから20 代で当時、日本最大級のショッピングセンターの店長を経験。2年以上かけて開発を進めた。

「いわゆる独立系ベンチャーで、オシャレなオフィス。絶対ここに行きたいと思って決めました(笑)。マーケティングやマネジメント、プレゼンについては、全部ここで学びました。ただ、ポーラでスーパーにモノを売り込むメーカー側の現場を体感していたこともあり、コンサルが提案する理想と現場の現実との乖離にモヤモヤしていた部分もあって…。そんななか、新潟県上越市にできる日本最大規模のショッピングセンターの話が舞い込んできたんです。企画書を書ける人間がほしいけど実働部隊にもなってもらうという話だったこともあり、手を挙げたのは僕一人。結局、自分だけが携わったため、やがてショッピングセンター運営会社から引き抜かれ、あらゆる許可取りや設備整備、出店者の誘致やスタッフの採用、売上げの管理やプロモーションなど、ほぼすべてを一人で担いました」

結果、大盛況となり、全国から取材や視察が殺到した。その勢いから、長岡市に 2施設目を開業。しかし社長が資金調達を焦った結果、投資詐欺に騙され経営破綻になったという。

「朝出勤したら社長は消えていて、債権者が行列をなし、みんなが商品を引き上げようとしている異様な光景でした。このまま破産したらゼロで終わってしまうからと関係者を説得し、即金で支払える分だけ仕入れて営業を続けることにしました。当時100人ほどいた店舗スタッフのうち、70人近くが辞めてしまい、自分の側近だった人も辞めました。残ったのは見事に自分がしゃべったことのないパートさんばかり。聞けば、いつもがんばっているから応援したくなったとか、定年したから一緒に泥船に乗るよとか、ほかに行くところもないから続けるわとか…そんな人たちに助けられ、なんと100人いた頃の売上げを取り戻せたんです」

中川さんが開業を手がけた、新潟県上越市のショッピングセンター

「残ったメンバーで奇跡的に事業を継続できたことが、人生で最も感情が昂ぶり、学びになった経験でした」と中川さん。この経験から、「人を焚きつけ、動かす力を身につければなんでもできるんじゃないか」と考えるようになり、人の重要性に目覚めたそうだ。

「それまで自分に専門技術がないことへの不安があったんですが、人をまとめることができれば事業はできると実感し、これは今の経営にもつながっています。やがて1年弱で引き継ぎ先が見つかり、東京へ戻ることになりました。そのショッピングセンターは現在もにぎわっているようで、うれしく思っています」

ミッションは、「人からはじまる、まちづくり」

その後、ご縁がありUDS株式会社の創業者、梶原文生さんと出会う。「デザイン性と事業性と社会性を兼ね備えた住宅やまちづくりにつながる建物をつくりたい」という梶原さんに賛同し、1999 年に31歳で UDS 株式会社に入社した。

「『自分はつくることに専念したいから、人事や細かな経営は任せたい』と言われ、彼と一緒に会社を成長させていくことにワクワクしたため入社を決めました。最初の事業は、コーポラティブハウスという自由設計マンションです。コーポラティブハウスとは、最初に住む人が複数集まって組合をつくり、自分たちが住みたい土地や建物の設計者や施工者を自分たちで探してつくっていく仕組み。高度な専門知識や経験が必要なため、UDS が企画コーディネイトや設計を担当しました。他の社員からも納得してもらえるよう、私自身、実務で成果を上げつつ人事や経営の比率を高め、3 年後に取締役に就任。翌2003年に代表取締役として共同経営を行うこととなりました」

エデュテイメント※をコンセプトとしたキッザニア東京の立ち上げや地方自治体のまちづくり、自律と共生を学ぶイエナプランスクール(大日向小学校)の開校や中高生のキャリア教育など、数多くの事業を手がけた中川さん。2020年に代表取締役を退任すると、同年、株式会社イツノマを起業した。

※エデュテイメントは、教育(エデュケーション)と娯楽(エンターテインメント)を組み合わせた造語

UDS社のノウハウを盛り込んだ共著『おもてなしデザイン・パターン インバウンド時代を生き抜くための「創造的おもてなし」の心得28』(翔泳社)の出版記念イベントにて。中央左が中川さん、右が共著者の慶應義塾大学・井庭崇教授

「経営は若い人がやったほうがいい。自分たちも若いうちに経営に携わったことで、会社の成長が加速したので、梶原さんともそう話していたんですが、結局は体制を整えるのに時間を要し、53 歳での退任となりました。それで次のキャリアを考えていくなかで、これまで培った人脈や実績を活かしてコンサルティングや顧問などをやっていくというのも浮かんだんですが、まったくワクワクしなかったんですよね(笑)。人生100 年時代、80 歳まで働くとすれば残り 30 年近くあります。今あるスキルは目減りする一方なので、自分をリセットできる環境で新しい挑戦をしていけば、2回目のピークを迎えて引退できるんじゃないかと考えたんです」

成し遂げたいのは、若者が主役のまちづくり

挑戦の場に選んだのは、宮崎県都農町。UDS時代、町制施行100 周年に向けたグランドデザインの作成業務を手がけていたことから、「人からはじまる、まちづくり」をイツノマのミッションとして掲げ、新たな事業を開拓することとした。まずは町民の意見や思いを引き出すことから始め、「まちづくり」と「教育」の掛け合わせたビジョンを策定。2021年には空き家をリノベーションし、「まちづくりホステルALA」を開業した。

「地方は市場がないため、いかに需要を創るかが重要です。新型コロナで、地方創生や移住に全国的に目が向いていたおかげもあって、ホステルであり、まちづくりの拠点でもあるALAに期待が寄せられています。自分も ALA に住んでいますが、関学をはじめ大学生のインターンも定期的に長期滞在しているため、合宿気分を味わいながら仕事の話をできるが一番の楽しみです」

ALAへ研修に来た東京大学の学生たちと。成果報告会も笑顔の絶えない楽しい思い出に

また、中学校の総合学習の一環として、商店街再生などのまちづくりプロジェクトを行う「つの未来学」を企画。生徒たちが農と食、経済、移住などの分野で活躍する町の経営者をヒアリングし、課題解決案を作成して町長や教育長に提案するという取り組みも行っている。

「最終的に成し遂げたいのは、若者が主役のまちづくりです。とくに高齢化や若者流出が加速する地で、地元の若者たちが人とお金を巻き込んで、自分たちが住みたいまちをつくることに貢献できれば本望です。今までやってきたことの集大成として、僕らも生計を立てながら次世代の起業家を育てたい。教育とまちづくりの交差点にいる起業家として、自分ができるMAXはそこなんじゃないかと思っています」

2024年度の「つの未来学」では、「みちくさ市」と題し、商店街の空き地でカフェや古着屋など4 つの企画を実践。平日の授業時間枠を使って 5 時間販売し、22万の売上げ、11万の利益を出し、経済産業省キャリア教育アワード優秀賞を受賞

経営者となり“Mastery for Service”が座右の銘に

50歳を越え、これまで築き上げたものをかなぐり捨てて、ゼロから起業をする。中川さんがそのチャレンジを決断した背景には、社会に向けて伝えたいメッセージもあったという。

「50歳以降の人間が、保身のために地位を守ろうとする構造があるのは、新たな働き方が今までなかったから。楽しく起業できるようになれば、次の世代にポストを渡せるじゃないですか。生意気な話ですが、新しい生き方の選択肢をつくって、『年をとるのもおもしろそうだよね』と思ってもらえる社会にしたいですね」

「社会がこうだから」ではなく、「自分がワクワクできるかどうか」だけで判断してきた自負がある。「良いか悪いか」ではなく、「好きか嫌いか」という基準を重んじることが、真に豊かな人生につながるのではないかと、中川さんは考察する。

「ワクワクが起こる多くの要因は偶然性なんですよ。心理学者のクランボルツ教授が唱えた計画的偶発性理論では、キャリアは偶然によって決まっていくけれど、その偶然を呼び込むためには、好奇心、持続性、楽観性、柔軟性、冒険心という5つの行動特性が重要だとされています。この考えは、自分も常々大切にしているところです。これからキャリアをつくっていく学生にとって、リスクは失敗することによる恥ずかしさだけだから、恥だと思わずとにかく発信して動いてみろと伝えています。これは自分の生き方の指針でもあるんですよね」

「つの未来学」の最終発表会で、ゲストで招いた地元の経営者と都農中学校の3年生全員。「若いうちからの挑戦が地域活性化にもつながる」と中川さん(最前列右)は期待を寄せる

人生でよりどころとなったのは、まさに“Mastery for Service”だったと中川さんは力を込める。それがわかるようになったのは経営者になってからで、今も座右の銘にしているのだという。 

「ほかにはない“Mastery for Service”というスクールモットーは、かっこ良くて在学中から好きだったんですが、実際に役立ったのは 30 歳を過ぎてからです。コーポラティブハウスでコミュニティをつくったり、空き店舗をリノベーションして有効活用したり、子どもに職業体験やキャリア教育を提供したりと、ビジネスでありながら社会貢献性を強く意識し始めた時代に共感が深まりました。プロになって対価を得なければ社会貢献性のある事業はつくれないし、持続性もない。貢献し続けるためには、楽しんで取り組むこと、人に動いてもらうことも欠かせません。“奉仕のための練達”を民間経営者の自分に落とし込んだらどうなるかを考えて実践してきたことが、今の生き方に直結しています」