
世界を変えることはできなくても
“あの人”が笑えるなら、ありったけを。
小さい頃あこがれた、国境なき医師団のように。

認定NPO法人あおぞら 理事長
葉田 甲太さん
関西学院中学部 2000年3月卒業
関西学院高等部 2003年3月卒業
カンボジアで新生児を亡くしたお母さんと出会ったことをきっかけに、2018年カンボジア、2019年タンザニアで病院を建設。国内外の医療が届きづらい地域で赤ちゃんを救うための活動に取り組んでいる。医師(総合診療医)。エレコムヘルスケア株式会社 代表取締役社長も務める。著書『僕たちは世界を変えることができない。』(小学館)等。
- 40代
- 医療職
- 国際協力
人に伝わる言葉を持たなかった中高時代
葉田さんは小学生時代、テレビで「国境なき医師団」の活躍を観て、医師をめざしたという。関西学院中学部、高等部を卒業後は、その想いを実現すべく医大へと進学するのだが、葉田さんは中学部時代の思い出を、こんな話で振り返ってくれた。
「中1の時、思いっきり身体を使う行事がありました。数キロ走ったり、ぬかるみでぐちゃぐちゃになりながらひたすら球を追いかける『めちゃビー』と呼ばれるラグビーをしたり。先生は行事の後、『これで“関学袋”ができた。あとはそこに“関学魂”を入れていくんだ』と言っていて。当時は『“関学袋”とか“関学魂”って、何やそれ』と思っていましたが、いま振り返ると、根性を出してやりきるみたいな体験はよかった。中2では青島キャンプという行事で、鶏をさばいて食べる体験とかもしましたね。行事も含めて学校生活全体で、挨拶とか自由には責任がつきまとうとか、人格形成や人間形成の大事なところを教えてもらえたなと感じます」
一方で、中学部の後半から高等部時代にかけては友だちがいなかったという。昼休みはいつも一人で隣接する関西学院大学の中央芝生に行って、ヘッドホンで音楽を聴いたり小説を読んだりして、「友だちがいないんじゃない、一人が好きなんだぜっていうアピールをしていました」と笑う。
「僕はいろいろ面倒くさいことを言うやつだったので、からみたくなかったんだろうなと思います」と葉田さん。フロイト、アラン、ラッセル、カフカ、バロウズ、サリンジャー、中島らもなど幅広い読書経験があり、早熟で内省的なところがまわりから浮いてしまうことにつながったのかもしれない。特に高校になると、周囲の自由な雰囲気になじめなかったという。
「そういう違和感みたいなものが表に出て、人が腹立つような言い方や行動しかできなかったのだと思います。先生ともよくぶつかって。カフカの小説に対する解釈の違いでもめたり、『がんばった人を評価する』という先生に『がんばったことはどんな指標で測るのか』とかみついたり。当時の先生方には本当に申し訳ないんですけど、生徒であることに甘えて、屁理屈をこねまわして八つ当たりをしていたんです」 学校をよく休むようになって単位を落とす科目もあり、成績はかなり悪かった。退学も考えるようになっていた葉田さんに、担任の先生は「きみがいいやつなのは、俺が知っている」と声をかけ思いとどまらせてくれたという。また、中間テストの試験用紙の裏に書いた詩を評価してくれる先生もいた。「『この詩は素晴らしい。きみは書けるから、本を書きなさい』と言われました。それがすごく自信になって、のちに本当に本を出すことになりました」
クラブイベントで集めた150万円でカンボジアに小学校を建設
関学高等部を卒業した葉田さんは、1年の予備校生活を経て日本医科大学に進学し、念願の医師への道を進み始めた。日本医科大学は日本の救急医療をリードする存在で、国内外の多くの災害現場で医療支援を行っていた。葉田さんはこうした活動に刺激を受け、1年の時には新潟中越地震のボランティアに参加。さらにスマトラ島沖地震の巨大津波で甚大な被害を受けたスリランカで、マラリア予防の蚊帳を普及させるボランティアにも参加した。その時に聞いたのが、津波で小学校が流され困っている子どもたちの状況だった。
「学校に行けない子どもたちがいることが何か気になり」、帰国後、何かできることはないのかと探し始めた。ある時、偶然立ち寄った郵便局に置いてあったパンフレットで、寄付を募りカンボジアに小学校を建てる活動をしている団体を知る。「150万円で5つ教室のある小学校が建つ」という文言に「これだ!」と感じた葉田さんは、さっそく仲間を募り、チャリティイベントで150万円の寄付金を集めることにした。
「集客には苦労しましたが、親しい仲間との活動はとても楽しく、自分たちの学校が建つと思うとワクワクしました。考えてみると、大学入学後、友達づくりで苦労したことはなかったんです。その意味では、中高時代にコミュニケーションでたくさん失敗したことも意味があったのかなと思っています」 より多くの人に足を運んでもらいたいと、若い人に人気のクラブをイベント会場に設定。入場料収入を集めるとともに、カンボジアの子どもたちの実情に興味を持ってもらえるようにした。とはいえ、それまで行ったこともなかったクラブに何度も足を運んで直接勧誘したり、ビラをまいたり、知り合いにメールを送ったりして集客するのは相当大変だったという。150万円を貯めるまでに数回イベントを開き、1年半かかった。

この間、葉田さんたちはカンボジアの視察にも出かけている。小学校の建設予定地で子どもたちの話を聞き、それだけでなく、地雷の被害にあって義足をつけている人たちを支援する施設、貧しい人たちが山積みのゴミの中から売れるものを探して生計を立てている「ゴミ山」、エイズ病棟なども回った。自分たちの目でカンボジアの現状を確かめたいと考えたからだった。
「当時、カンボジアの農村部では子どもも働き手として家計を支えており、小学校を卒業できるのは50%弱程度でした。教育への関心は薄く、小学校も黒板と長机があるだけの青空教室でした。それでも、子どもたちには夢がありました。将来は何になりたいかを聞くと『医者』『看護師』『学校の先生』などと口々に話してくれました。
地雷被害者の支援施設では、リハビリに励んでいるまだ10歳の少女もいたし、義足でジャングルジムを軽々と上り下りする男性にも出会いました。彼は、フィアンセの写真を見せながら『来月結婚予定なんだ』とうれしそうでした。
エイズ病棟では、エイズに対する偏見から患者さんが人々から避けられてしまう話を聞きました。写真撮影を許可してくれた女性患者の一人は、『なんの抵抗もなく肩を抱いてくれてすごくうれしかった。生きる希望が湧きました』と話してくれました。
カンボジアには過酷な現実や死が至るところにあり、出会った人々の悲しみや苦しみに胸が痛くなりました。一方で、文献からではわからない、今を生きている人々を全身で感じる経験でした」
イベント準備や現地視察の話を聞いていると、葉田さんが医大生だったことを忘れそうになる。医師になる勉強とボランティアの両立はかなりハードだったはずだ。
「そうなんですよ。1年間の必修科目がめちゃくちゃ多くて、1日12時間、毎日勉強しないと間に合わないんですね。やらないと単位を落とすので肉体の限界までやると、最後はハートの勝負になります。実際に医者になったら、『失敗しました。ごめんなさい』では済まないでしょう。医学生の勉強は、命を預かる仕事の覚悟を身につけるものだなと身をもって感じました。“関学袋”と同じです(笑)。小学校の建設も医者になる勉強も、真剣にやらないと達成できない。ここで、人のために働く基礎が鍛えられました」
カンボジアの小学校は見事完成した。葉田さんは、「それだけで社会が何か変わるわけではない。いろんな人にこの顛末を伝えることで世の中がもっと良くなるんじゃないか」と考え、本を書くことにした。本が売れれば、継続支援につなげる資金に充てたいという思いもあった。
「2年かけて原稿を仕上げていたのですが、あることがきっかけで全部書き直しました。その頃、僕は、SNSでボランティアなどの活動について、語り口調で飾らずに発信していました。それを読んでいたある女性から『あなたの言葉で自殺をやめた。世界には私みたいな子がまだいるから、あなたのやったこと、考えていることを世界に伝えてほしい』と言われたんです。完成していた原稿は、よそゆきの言葉で主張する大上段に構えた内容でした。それで、それまでの原稿はボツにし、ベンチの横に座っているその女性に話すようなつもりで、僕の想いだけを率直に書くことにしました」 そうして生まれたのが『僕たちは世界を変えることができない。But, we wanna build a school in Cambodia.』という本だった。自費出版で刊行し、葉田さん自身が何度も本屋に営業に行ったという。まず1店に置いてもらうところから始め、あきらめずに続けて発刊から約1年で5,000部を売った。その頃映画化の話があり、本は大手出版社からあらためて刊行されると台湾や韓国でも販売され、累計10万部を超えた。

生後22日で赤ちゃんを亡くしたお母さんの苦しみ
本が映画化されたのは、大学を卒業し研修医になって1年目の時だった。映画は大ヒットし、葉田さんはたくさんのメディアからインタビューを受け、日本全国から講演にも呼ばれた。
「有名人みたいになってちやほやされて、調子に乗っていました(笑)。でも、医師としては駆け出しだから目の前の仕事をこなすのに精一杯。毎日先輩に怒られていました。2人の自分がいるような感覚で、気持ちが不安定でした。そんな中で、医師として国際協力をするという目標にも、雑念が入ってきたんです。国際協力をするのに、NPOとして活動するより国連など国際公務員として活動するほうが、より安全だし収入も期待できる。そんな現実を知り、国連をめざそうかと考え始めました」
国連では、医師としての専門性を活かして保健政策の立案や提言などを行い、マクロな視点で公衆衛生や母子保健などの向上を支援する。一方で、NPO・NGOの活動は紛争や災害に苦しめられている人々への緊急医療支援など、行政の手が届きにくい地域での直接支援が中心になる。仕事として考えると、国連の正規職員なら安定した立場で長く働けるが、短期派遣やボランティアで働くNPOだと本業にはしにくい。世界で人の命を救う仕事でありながらまったくタイプの違う両者の間で、葉田さんの気持ちはゆれていた。そんな時、スーダンでNPO活動をする川原尚行さんと知り合った。臨床経験を積んだのち、外務省に医務官とて赴任し、その後、安定した職を捨ててNPO活動をしている人だった。
「川原さんになぜNPOをやっているのか聞くと、『スーダンの人を笑顔にするのは楽しいから』という答えでした。それを聞いて、小さい頃に国境なき医師団にあこがれ『人のために働く』ことをめざしていた気持ちを思い出しました」
葉田さんは、もう一度原点に戻るため、小学校を建設したカンボジアの村を訪問する。そこで聞いた話が、その後の活動の方向を決めることになった。とても貧しい夫婦の赤ちゃんが、生後22日で亡くなった。病院は遠く、救急車のような役割を果たしているバイクタクシーを呼ぶにもお金がない。村の人々を駆け巡り、借金してようやく呼んだバイクタクシーの中で、病院に着く前に亡くなってしまったという。
「そのお母さんは話しながら、ずっと泣いていました。目の前で泣く姿を見て、僕にとっては、苦しんでいる“誰か”ではなく苦しんでいる“あの人”になりました。こんな涙を減らしたいと思いました。僕も大人になって自分の限界が見え、行動することで批判される経験もして、失敗を恐れるようになっていた。でもこの経験で、保身のためだけに生きていていいのかと叱咤されたというか、行動しないと亡くなった赤ちゃんに合わせる顔がない気がしました」

お母さんと赤ちゃんを救う途上国での病院建設
日本に帰った葉田さんは、総合診療科の専門医の資格を取得し、離島などへき地で臨床医をするかたわら、再び国際協力ボランティアの道を突き進む。NPO法人「あおぞら」を設立してカンボジアへの国際協力活動を精力的に進めた。発展途上国に開発援助を行っている国際的NGOワールド・ビジョンの協力を得て、2018年、カンボジアのへき地、サンブールに保健センター(病院)を建設した。これにより住民8千人が医療にアクセスできるようになった。さらに現地の人が基本的な医療サービスにつながることができるよう、小児科の先生たちとともに新生児蘇生法を現地の医療者に教えるプロジェクトも開始した。現在までに、カンボジアのほかラオス、モンゴル、ネパール、コンゴ、タンザニアへと活動エリアが広がっている。
「どちらも、多くの仲間や専門家に助けてもらって実現しました。病院という箱をつくるだけでなく新生児蘇生法の医療教育が必要だと考え、まずは自分で新生児蘇生法を学んだのですが、内科医の僕が簡単に人に教えるレベルにはならないことを思い知らされました。
いろいろ伝手を頼って、ようやく新生児蘇生のシミュレーション教育をしている小児科の先生を紹介されたのですが、この先生は海外途上国支援経験があるなど願ってもないスキルの持ち主でした。ぜひメンバーになってほしいと、メールには、今まで僕が見てきたことややってきたこと、うまくいかなったこと、先生の力がいかに必要かなど全部ストレートにぶつけ、『亡くなる赤ちゃんを少しでも減らすために、力を貸してください』と頼みました。先生はメンバーになることを快諾してくれました」
葉田さんはこれまでに何度も「人生をかけてメールを書いてきた」というが、このメールもその1通だった。そもそも何か人に頼む前に、まずは自分が動いてみるのが葉田さんの身上。必要だと思うことはとにかく実行し、苦労をいとわず全精力を傾けてきた数々の経験を土台に発せられる言葉が、途方もない説得力を持って相手に届くのだろう。
臨床医をやりながらの活動だから、体力的にも精神的にもきつくないはずはない。それでもやめなかったのはなぜだろう。
「一つは、今やらないと人が死んでしまうからです。行動すれば助かる命があるということは、やらないと死んでしまうということ。その地域だけ、たくさんのお母さんが亡くなるなんて、許していいはずないと思うんです。
もう一つは、人が笑顔になるからです。カンボジアに保健センターをつくった後、以前赤ちゃんを亡くしたご夫婦に会いました。『お腹に赤ちゃんがいます。この新しい保健センターで生むつもりです。ありがとう』と満面の笑顔で、見た瞬間、泣きそうになりました。赤ちゃんの存在は周囲に笑顔を生み出すんだなと、改めて教えてもらいました。人が笑顔になると、うれしいじゃないですか。シンプルですが、それが活動の原動力になっている気がします」
ワールド・ビジョンの支援であおぞらの活動は広がり、タンザニアでもさらに、へき地への病院建設プロジェクトを始動させた。だが、この時は現地でちょっとしたトラブルがあったという。タンザニア政府や住民と話し合い、政府が病院建設の資金を拠出することが決定した。ところが住民が期待していたスピードで事業が進まず、葉田さんたちが何度目かに訪問すると、「なぜ放っておくのか」と住民から詰め寄られたという。
そんな他人事のような声に葉田さんは叱咤した。「僕は『あなたたちの地域で赤ちゃんやお母さんたちがたくさん亡くなっているのに、今まで見過ごしてきたのは誰なんだ。僕らはよその国から来て全力でやっている。僕らを非難する前に、自分たちを恥ずかしがるべきじゃないのか』と言い返しました。そしたら、現地の人が『コータの言う通りだ。もっとがんばろう、俺たち』みたいに気づいてくれました」
その後、地域の人ががんばったからか、政府も追加の予算枠を設け病院建設は順調に進んだという。葉田さんの真剣さはここでも相手を動かした。無事に病院が建った時、地域の人は3日ぐらい踊り続けていたという。その様子が、「病院ができることは、踊りあかすほどうれしいのかと、すごく印象的だった」と葉田さん。現地で悲しみや涙、そして喜びという人々の生の感情に触れることが、パワフルな活動の原動力になっているのかもしれない。

「世界を健康にする」ソーシャルビジネスの世界へ
葉田さんは、新生児蘇生法の教育を続ける中で、これを世界に効率よく広げるための方法を模索していた。そんな中で、日本のIT関連機器メーカーが遠隔新生児蘇生法講習シミュレーターを大学と共同開発していることを知る。このデバイスが実用化されれば、日本の小児科医を現地に派遣しなくても、途上国に新生児蘇生法の実践的な教育をより早く普及させる可能性が広がる。
「これはすごいと思ってどこのメーカーがやっているのか調べてみると、僕の父が経営するエレコムという会社。本当に知らなくて、『嘘やろ、奇跡か』と思いました」
これまで医師、NPOとしてやってきた経験を生かして、もっと多くの赤ちゃんを救えるのではないかと考え、2023年、葉田さんはエレコムに入社する。企業、行政、大学、市民などさまざまな人や機関の共創によって社会課題の解決にあたる時代、「今度は企業という立場から、人の健康を守る技術で社会を変えていきたい」という想いからだったという。
ヘルスケア事業部を統括する責任者になって2年。初めて飛び込んだビジネスの世界は「飛び交う単語からしてわからないことだらけ」だったが、最初の1カ月でオンラインも含め約200社の人と会うなどパワフルに走り続けた。2025年8月には、開発中だった新生児蘇生法シミュレーション訓練用の補助デバイスの発売にこぎつけた。すでにアジアやアフリカのいくつかの国に導入することも決まっているという。新生児医療のほかパーソナルヘルスレコードと呼ばれる自分の健康情報の活用、持続可能な医療・介護など、進行中あるいはこれから実現したいテーマはまだまだあるようだ。

医師、社会活動家、そしてビジネスマンと、活動フィールドを変化させてきた葉田さんだが、「人の命を救いたいという想いは小学校の頃から変わらない」と言う。多感な時期に関学で学んだ聖書の物語が、自分の中に「他者に奉仕する」ロールモデルとして残っている感覚もあるという。
葉田さん自身、自らの活動や考えを本に執筆したり講演活動を行って多くの人に伝え、若い人たちのロールモデルになっている。
「『葉田さんの本を読んだことがきっかけで、国連やNPOで働いている、民間企業でソーシャルビジネスをやっている』といった話を聞くたびに、やっぱり種まきは大事なんだなと思っています。志がある人は、絶対、僕よりでかいことをするし、それで世界が少しずつ動いていけばいいなと」

医療を人々の身近なものにする、多くの人の健康を守るといったマクロなビジョンのおおもとに、『“あの人”のために』という感覚を常に持ち続けているのが葉田さんらしさ。
「医療もNPOもビジネスも、使う言語や文化が違う世界。どれも知っている強みを生かして互いの橋渡しをして、今までできなかったことを実現したい。社会課題を解決するソーシャルビジネスで結果を出し、次は『世界を変えることができる』という本を書きたいですね(笑)」
-
1