社会の中で幸せに生きる
子どもたちを育てるために
さまざまな境を越えて人と人とをつなぐ。
神奈川県公立小学校教諭
川原 翼さん
関西学院大学総合政策学部 2007年3月卒業
神奈川県秦野市の公立小学校に5年間勤務し、在職のまま青年海外協力隊員としてグアテマラで教育支援に従事。2015年に帰国後、秦野市と東海大学の連携による多文化共生推進プロジェクト「彩とりどりの子どもたち」を中核メンバーとして推進。外国にルーツを持つ子どもたちを支援する活動に取り組む。
- 40代
- 学校教員
- 教育
ストリートチルドレンとの出会い
映画が大好きで、ハリウッドで映画を撮るという夢を抱いた川原翼さんは、国際性を身につけたいと関西学院大学総合政策学部に入学した。しかし、実際に選んだ仕事は、「当時は1ミリも思っていなかった」小学校教諭である。「私の人生を決めたのは、総合政策学部で過ごした学生時代でした」と川原さんは話す。
中でも大きく影響を受けたのは、「Eco-Habitat関西学院」の活動だという。Eco-Habitat関西学院は、主に東南アジアの各地域で住宅建設の支援を続けている大学公認の国際ボランティアサークルだ。最初はみんなで海外に行ける、ぐらいの軽い気持ちで参加した川原さんだったが、1回生の夏にフィリピンを訪れたのを境に活動への思いが大きく変化した。
「市街地の市場でストリートチルドレンに出会ったんです。私にとっては初めての経験でした。事前に『物乞いされてもお金を渡してはいけない』と言われ、そのお金がその子どもを犯罪やトラブルに巻き込む危険性があるからだということも理解していたつもりでした。けれど、実際に直面すると『お金をあげたい』という気持ちになってしまいました。
その話をすると、当時の顧問だった今泉信宏先生に『お金をあげたいと思った時のきみは、その子と同じ目線に立っていない。それが先進国のおごりなんだ』と言われ、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けたんです」
帰国後、自分なりに調べたり勉強したりする中で、途上国の貧困問題に対して自分たちも無関係ではないと自覚した川原さんは、「Eco-Habitat関西学院」の活動にのめり込み第八代会長も務めた。
ブラジルのスラム街で知った「教育の力」
3回生の時にも転機があった。就職活動に意味が見いだせないと相談したゼミの村田俊一先生からかけられた「用意されたレールを外れてみろ」という言葉で、自分の道は自分で見つけるものだと再認識した川原さんは1年間休学し、ブラジルに向かった。
「私はブラジル日系移民の四世世代なんです。生まれて1年ほど住んだだけなので言葉も全く話せませんが、自分のルーツを訪ねてみたいという思いがありました。それに、大学で勉強するうちにブラジルにも貧困にあえぐ子どもたちがいると知ったことも、大きなきっかけでした」
滞在先は、サンパウロのスラム街の一つ、モンチアズールである。そこではシュタイナー教育をベースに子どもたちに情操教育をしながらコミュニティ全体をよくしていくという活動が行われていた。シュタイナー教育とはドイツのルドルフ・シュタイナーが提唱した教育で、思考・感情・意志の調和をめざして特に絵や音楽など幅広い芸術活動に力点を置く点に特色がある。川原さんは、放課後に本を読み聞かせたり、絵を描いたり歌を歌ったりする学童保育のような場で、ボランティアとして先生のアシスタントをして過ごした。子どもたちは荒れていて、ちょっと目を離すとあっちでもこっちでも小競り合いが絶えない。
「そんな中でも、先生は大らかに愛情深く接していました。やんちゃな子どもたちも、先生がぎゅっと抱きしめると落ち着くんです。私がいる間にも子どもたちが目に見えて変わっていくのを目の当たりにして、教育の力ってすごいんだなと実感しました」
川原さんの中で教育への関心がふくらんだ。将来の夢は何かと聞かれ「かっこいい」からと言って泥棒の絵を描く子ども、観光客が持っているスマートフォンやデジタルカメラ欲しさに売春する子どももいた。彼らが本当に生きたい人生を自分で選べるようになるために教育が不可欠だと痛感したという。教育の現場で経験を積んで、また国際支援の場に戻ってきたい。そんな気持ちでブラジルを後にした。
教師として世界とつながりたい
ここから、川原さんは休学して見つけた「自分の道」と正面から向き合っていく。復学して教職科目を集中的に履修し、さらに他大学の通信教育課程も利用して小学校教諭免許を取得した。小学校なら、生きる力に直接つながることを教えられると考えたからだという。小学校教諭としてのキャリアをスタートさせたのは神奈川県秦野市。ブラジルをはじめ中南米をルーツとする子どもたちが多い土地で、身につけた語学や経験を役立てられないかと考えたからだった。
5年後には、国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊に応募し、グアテマラへ。在職のまま派遣される現職教育特別参加制度の狭き門をくぐり、希望をかなえた。グアテマラでは教員養成校に派遣され、教師の卵たちに算数の授業の教え方を指導した。グアテマラは日本の算数の教科書を高く評価し国定教科書として採用していたが、教師自体が教科書を使いこなせないことが問題になっていたのである。
日本の教え方を教えるという、やりがいのある仕事。ただ、最初のうちは教員養成校の先生たちの態度にイライラさせられることも少なからずあったという。
「約束の時間には遅れるし、会議をしようといってもいろんな言い訳をして来なかったり、意欲が感じられなかったからです。生徒の中にも分数の計算もできないような人もいて、そんな彼らが1年後に教壇に立てるよう、実力をつけさせなければと焦っていたんですね。でもそのうち、彼らと日本人の私とは大事にするものや、ものの考え方が違うとわかってきました」
彼らを日本人にするためにここにいるんじゃないと気づいたという川原さん。相手が大事にしているものを尊重しながら、自分のできることをしようと気持ちを切り替えたという。それは、大学の恩師の「先進国のおごり」という言葉をきっかけに、広い世界に飛び出して自分の役割を果たそうと行動してきた川原さんだからこそ持ち得た、謙虚さだっただろう。
突き当たった壁の向こうに見えたもの
2年間のグアテマラでの日々は充実していたが、帰国すると一つの壁に突き当たった。
「次に何をしたらいいのかわからなくなったんです。現場復帰してすぐ学年主任という責任のある仕事を初めて任され、一日一日をこなすのが精いっぱい。これから何をすべきか、ゆっくりと考えられなかったのも大きかったですね」
精神的に苦しく、一時は「青年海外協力隊へなんか行かず、現場で経験を積んでいたほうがよかった」と思うこともあったという。それでも、外国をルーツとする子どもたちの学習支援を行う団体とつながりをつくるなど自分なりの取り組みを少しずつ続けた。
帰国して3年が経った頃、秦野市のブラジル人教会の牧師さんから、「ブラジルからの移住者が急増し、子どもも保護者も困っている」という相談を受けた。以前に比べ、全く日本語がしゃべれないまま家族で移住してくるケースが増え、市内の学校でもどう教えたらいいのか戸惑いが広がっていた。
川原さんは市民団体や東海大学の学生団体、行政などと協力し、外国をルーツとする子どもたちを支援する取り組みを始めた。教師に対しては外国ルーツの子どもたちの文化的な背景や日本の学校教育とのギャップを学ぶ教員研修会を開いた。一方、保護者には日本の小学校での教え方をレクチャーし、どんな教育効果があるのかを丁寧に説明した。また、教師や保護者、外国籍の子どもたちの学習を支援する人、市の担当者など関係者が集まり、それぞれの困りごとや課題を話し合う機会も設けていった。川原さんは、学校と学校外で子どもたちを支援する人同士をつなぐ橋渡し役を果たしたのだ。
変わることを恐れない教師に
川原さんは、プロジェクトを通じてできた地域の人たちとのつながりを大事にしながら、「社会の中で幸せに生きていく子どもたちを育てる」教師の仕事を全うしたいと話す。ただでさえ大変な学校の仕事に加え地域でも活動するとなると、時間はいくらあっても足りないだろう。そのモチベーションはどこからくるのだろうか。
「一つは子どもの頃に起こった阪神大震災で友だちが亡くなり、どうせ生きるなら誰か人の役に立つことをしたいと自然に思うようになったことです。もう一つは、大学時代以来の経験の中で、人とのつながりの中にこそ人生があると信じることができたからでしょうか」
真摯に人と向き合うことで人とつながり自分を成長させてきた年月が、今の川原さんを作り上げているのだろう。
もちろん、自分の教える子どもたちとのつながりを大切にしているのは言うまでもない。「子どもたちを理解しないとつながりは生まれません。『大人の都合』で子どもの個性を失わせてしまってはいないか、本当にこの子のためになっているのか、常に自分に問いかけています」
社会も子どもたちも変わっていく現代だから、「教師である自分がまず変わらないと」という言葉が印象に残る。社会とつながってその変化をとらえ、常にレベルアップしていきたいのだという。
一方で、グアテマラから帰国した時の「次に何をしたらいいのか」という問いへの答えは「まだ見えていない」のだとか。日本と外国、学校と社会との境を超え、人と人とをつないでいく川原さんの進む先には、どんな教育の未来が広がっていくのだろう。
Release Date : 2024/04/01
※掲載内容は取材当時のものとなります
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